平和とユネスコと、それから私

「平和ってなに?」
 私は大きな図書館の片隅で洋書がいっぱいに詰まった天井まで届く本棚の真ん中に立っていた。気づけば私はこの疑問の答えを探して、アメリカのマンチェスター大学で世界中の学生と共に平和を学んでいた。毎日迫られるレポート提出、読んでも読んでも終わらない資料に目を通し、クラスではその資料を基に白熱した議論が繰り広げられ、正直何度も辛くて泣く毎日だ。私はプレッシャーと焦りを感じて宿題が手につかないときは、いつも秘密の場所に行って本を眺めて時間を過ごした。その一角は平和学に関する本が集められており、そこにいるだけで世界の平和学者、活動家の声が聞こえるようで気持ちが落ち着いた。
 アメリカ留学を一言で言うなら「survive(生き残る)」。しかしながら、一度も日本に帰りたいとは思わなかった。なぜならイラクやソマリア、中国やビルマなど、世界中から集まった仲間たちはまだ見ぬ国際平和のため国家や世界を変革するために日々学んでいたからだ。マンチェスター大学はアメリカで始めて平和学部を設立し、公民権運動の指導者、キング牧師が凶弾に倒れる前にスピーチをした最後の場所でもある。マンチェスター大学はそれゆえ、平和学を学ぶために世界中から学生が集まっていた。私はそこで20歳から国際政治や平和哲学ついて学んだ。
 平和への関心は、小学生だったころのたわいもない疑問から始まった。戦争はなくとも、国内外で貧困や人種差別など溢れているのに、なぜ日本は「平和」と呼ぶのだろうか。
 そこで私の「平和探し」は本格的に始まった。私は高校に入り、図書館にある岩波新書ジュニアを本棚の右端から左端まですべて読んだ。それが終わると、読むものがないと、図書館の先生に文句をつけた。16歳の夏休みにカンボジアに行き、HIV/AIDsの感染率が高い貧困地域に滞在した。偏見や差別を受けながら、病人もそうでない人も必死にだけど明るく生きている姿を見た。キリングフィールドでは多くの無垢な人々が内戦によって命が奪われたことを知り、たくさんの遺骨の前で心が苦しくなった。戦争が終わって30年、カンボジアは今平和なのだろうか。
 私はわからなかった。平和のヒントが出るたびに、新しく疑問が生まれていった。私は、本や実体験だけではなく、自分でも身近な平和づくりに関わりたいと心から強く思った。そのとき、出会ったのがユネスコだった。
 ユネスコは高校生だった私にたくさんの経験をさせてくれた。組織をつくることの難しさやイベントを成功させることの苦悩と喜び、そして人に伝える事の大切さを教えてくれた。
 その中で私が一番自分自身の学びになったのは、出前授業である。最初の出前授業は高校1年生の時に中学校に1年生に行ったものだった。広い体育館に集まった中学生の目が一人高校の制服を着た私に向いてとても緊張した。その時私は一方的にカンボジアの話をしながら、私は聞いてくれていた学生たちの顔を見ていた。なんだか距離があるような気がした。私だってわからないことがたくさんあるのに、平和を語るのは一方的でいいのか。私は語るだけではなくて、彼らの気持ちや意見も聞きたいと思った。どうせ平和の話をするならば、私が自分の平和を語るのではなくて、皆で考えたい。私はそこで、平和を一緒に考えるように出前授業をしたいと思うようになった。
 ユネスコは私にたくさんの機会を与えてくれた。全国の仲間とも出会うことができた他、カンボジアにも度々行く機会を与えてくれた。学校での出前授業は毎年行われ、そして昨年の11月私は母校の小学校での3回目の出前授業をすることができた。嬉しいことに、この学校はユネスコスクールとして認められた。しかし今年で閉校し、その名前もまたユネスコスクールから消えてしまう。
 学校がなくなってもそこで学ぶ子どもたちはこれからも成長し続ける。子どもたちは大きくなって広い世界に飛び出していくだろう。平和の出前授業が伝えたかったことは、それぞれが自ら社会に目を開き、自分で平和を考えることである。それは何歳であっても、何処であっても変わらない。ユネスコの種を蒔き続ければ、必ず平和の芽は出ると信じているのだ。
 平和とユネスコと、それから私。平和とはまさしく私の学び、ユネスコとは学んだことの発信、そして私はこれからも果てない疑問の答えを探していくのだろう。「平和ってなに?」この答えが出せる時、世界に平和は訪れているのだろうか。
 次回は、アメリカで学んだ平和学とは何か、を語りたいと思う。

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