私が直面した貧困大国アメリカの"リアル"

 息ができないくらい酸っぱい臭いが鼻を刺す。それはお風呂に入っていないからか、服を洗濯していないからなのか。異臭で息ができなくなる。目の前にいるのは興奮した様子の30代アフリカ系アメリカ人のカップル。そしてその後ろには経済支援が必要な人々が部屋を埋め尽くしていた。ここは、街の一角にある一軒家の小さな貧困対策支援センター。私は大学で平和学の学士を取得したあと、実践経験を積むために、ここに勤め始めた。ここには毎日30人を越える生活困窮が訪ねてくる。私は無職や母子家庭の金銭的な困窮者のために働いていた。彼らの多くはDV被害者、アルコール、薬物中毒者など精神的、社会的な困窮も抱えていた。私はそのような人々にカウンセリングを行い、必要であればその月の光熱費代や家賃、再就職のための身分証明書発行手続き代理などの支援を行う。必要な書類に目を通し、所得や家族構成など個人情報を全て聞き出す。そしてどのような経緯と理由で社会から排除されてしまったのか、その日をどのように生き延びたらよいのか困窮する人生の話に耳を傾ける。それが私の仕事だ。
 そのカップルは結婚をしていなかった。女性は情緒不安定で薬物依存、アルコール依存で施設に滞在しながら治療とリハビリをしている。男性の方は一週間前に解雇され、無職状態、実家に身を寄せている。心の余裕がないためかその男性は怒りを込めた凄い剣幕で話をし始めた。二人に貯金はなく、さらに数週間前に生まれたまだ目の開かない未熟児の赤ちゃんがいた。私が関わっていた地域では、親に育てる状態にないと判断された場合は、子どもと母親は直ぐに引き離され、乳児院に入れられる。母親は出産のあとすぐに施設に入り、健康になるまでは子どもと一緒に暮らす事は許されない。その男女は早く家族3人で暮らしたいから、生活を立てなおそうと必死だ、と私たちに強く語った。センターは就職支援として、2週間のバスの定期券を無償で交付していた。彼らはそれを赤ちゃんに会いに行くために発行してほしいと訴えてきた。

 このケースは特別ということではなく、様々な不幸を経験した人々を私はたくさん知っている。しかしながら、一度転落した人生でも、生きる希望があればチャンスを与えられるのが道理である。ただ、貧困に陥る人の多くは貧困家庭の出身であるため、彼らの家族からは支援を期待できないのが現状だ。貧困は次世代に引き継がれ、社会の闇となりテロや犯罪に関わる若者も少なくない。乳児院の赤ちゃんもその一人になってしまうかもしれない。親や大人からの無償の愛情をなくして、赤ちゃんは将来、人を愛することを学ぶのは困難だろう。
 平和とは国家間だけの関係ではない。平和は、直接的な暴力の以外にも貧困や社会的構造の中で生まれる格差という暴力にも関わっている。貧困や格差は目に見えないが平和を脅かす暴力であると私は考える。
 しかしながら、私は生活困窮者の人生を変えることはできない。その月を生き延びるための水道代、真冬に凍死しないための燃料代など、支援は限定的だ。母子家庭の子どもたちが泣きついてきても、来月どうやって生き延びるのか、それに対して私はどうすることもできない。人生を変えるのは、最後は本人である。切なくなる気持ちを押し殺して、自分にそう言い聞かせながら貧困支援の希望と現実を毎日かみ締めた。
 平和学を学んでも私は余りにも無知で無力だ。多くの生活困窮者に会うたびに私は自分の想像力とできることの限界を思い知らされた。それでも毎日彼らに向き合うのは、信じたいからである。今を耐えれば、貧困から抜け出す新しい機会が待っているかもしれない。
 文献では語りきれない一人の人間から学ぶ"理想と現実"。私はこのセンターで多くの人間に出会い、人生そのモノが語る"社会の闇"とそれでも支援を続ける人間の"良心の葛藤"を学ぶことができた。

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