好奇心の向こうに

 "今、私ができる支援"
 このタイトルは10年前、高校生だったときに書いたエッセイのタイトルである。そのエッセイの中で自分が高校1年生の夏休みにカンボジアのエイズが蔓延していた地域でボランティア活動をしていた体験とそこで学んだ事を綴った。
 
 16歳のとき、初めて海外に行った。そこがカンボジアであった。しかしながら、カンボジアでボランティア活動をするということは、家族を驚かせたに違いない。きっかけは母から何気なく紹介された一枚のチラシであった。それは、カンボジアの村で2週間かけて農作業などのボランティアを行うものだった。当時、本で読んでいたいわゆる「貧困地域」が実際どのようなものなのか、この目で確かめ、何かの役に立ちたいと思い、すぐに行きたいと両親にお願いをした。しかしながら、カンボジアへの道は一筋縄ではいかなかった。安全を心配した父には猛反対され、さらにタイミングが悪く、訪れる予定だったシエムリアップで邦人を含めた人質事件が起きてしまったのである。もちろん父はさらに困惑し、「お前の骨を拾いにカンボジアまで行かないからな!」と言い放った。それでも諦めなかった。許しをもらうために、父に向かって初めて土下座をした。最終的に、父は渋々ながら許して、送り出してくれた。
 
 向かったのはシエムリアップという街の片隅にある村だった。そこはHIV/AIDs感染者が多く、日本のNGO団体が支援をすることで効率的な農業生産を進め、市場で野菜を販売して生活の糧を得ていた。そこで初めて、HIV/AIDs感染者と触れ合う機会を得た。内戦の傷跡も深く残され、地雷や紛争で義足の人も、目の見えない人もいた。あれだけ父を説得し、自ら望んで来たにも関わらず、正直足がすくんで最初は近づくことすらできなかった。そんな中、ボランティアチームの隊長がこう言った。「ここでは、街で売られている子ともを引き取って一緒に育てている。健康の人も、そうでない人も一緒に暮らせるんだよ。」戸惑う気持ちを引きずりながらも、名前を聞く事や挨拶をすることから歩み寄ろうと決めた。最後にはたくさんの子どもたちを抱きしめ、頬にキスをして別れを惜しんだ。
 
 悲しいのはカンボジアの社会ではまだHIV/AIDsへの正しい認識が低いことだった。現地でのHIV患者に対する差別は酷く「悪魔の化身」と呼ばれ、石を投げられることもある。しかしながら、感染理由である売春・買春、注射器の使いまわし、性交渉など、感染経路を自覚せず、新しい人に感染させてしまうことが問題だ。
 

 まず「無知」を改善すること。そうすれば、病気への正しい理解が進み、きっと差別も少なくなるだろう。そして一時しのぎの物資支援に頼るのではなく、彼らの生活基盤を彼らの収入の上に成り立たせるべきであると私は考える。貧困の連鎖を断ち切るには、学校に通うことで教育を受け、実用的な収入を得るための技術訓練が必須あると強く思った。10年、20年と結果がでるまでの時間は長くかかるが、それが最善な支援であると今も変わらず確信している。
 
 そして自らもまた、もっと多くの知識を得たいと強く思った。「無知」であることを痛感させられたからだ。英語でのコミュニケーションもままならず、カンボジアの風習や文化、そして貧困の構造についてあまりにも理解していなかった。だからこそ、学校の勉強はもちろん、より多くの本を読むように心がけた。友だちがカラオケや流行の洋服にお金を使う中、毎月お小遣いを貯めては、本を買っていた。書店に行く時は、必ず自分が読んだことのない本があるかどうか確認した。
 
 カンボジアで感じた想いはたくさんあり、帰国してから考えを整理することがなかなかできなかった。いろんな衝撃を受けて、気持ちばかりが高揚していた。その時、新聞広告で見つけたJICAのエッセイコンテストの事を知り、自分の想いに向き合って文章にする事を決めた。考えを少しずつ言葉にすることで、さらに自分の考えが明らかになっていくのを感じ、ワクワクした。しかしながら、締め切り間際、完成していたはずの作品がどうしても気に入らなくなった。なんだか綺麗ごとを書いているようで、違和感があったのだ。そこで締め切り3日前に内容のほとんどを一晩で書き直し、担任の先生の推敲を受けて、そのまま提出した。その作品を素直な気持ちで書ききった達成感と自分がカンボジアで持った新しい好奇心に胸が躍った。正直、結果は二の次で、自らの心に向き合えた時間が何よりも価値があった。
 
 その後、自分の中である疑問が生まれていることに気がついた。それは"高校生が日本からできる国際協力はないのか"、ということである。たくさんの本を読んでも、色んな話を聞いても、やはり実体験に変わる学びはない。高校生であっても勉強以外で何か出来ることは無いのか。爆発しそうな好奇心を押し殺して、毎日うずうずしていた。
 
 数ヵ月後、学校の昼休みにいきなり校内アナウンスで職員室に呼びだされた。そこで、いつもは怖い学年主任は私に満面の笑みを浮かべて、いきなり握手をしてきた。驚くべき事に、そのエッセイコンテストでおおよそ3万件の応募の中から入選したのだった。そして副賞として2週間、中国の吉林省での研修を与えられた。
 
 次回は、吉林省での研修で得た事について触れたいと思う。

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